昭和四十八年十一月十三日 朝の御理解
御理解第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
昨日美登里会でございました。大変熱心にお話が尽きない程皆さん、いろいろ信心の共励をなさいました。その中に、大変、大変私嬉しく思うたこと、大変有難いと思うたこと、本当にあの、今日の御理解ではないですけど、神も喜び、金光大神も喜び氏子も喜び、しかも、氏子も喜びじゃというようなお話でした。
吉井の波多野さんが話された中に、こんな事が・・・・先日丁度、末永先生がお結界奉仕しとるときに、お取次を頂きました。
まあいよいよ時代がこういう時代でございますから、いよいよ難しい、世の中が何か狂って、そんな感じの時代に・・・・深刻になってくる。いよいよ物は、物価は上がる。とにかく何かが狂っているといったような感じである。
そういうた事を心に懸かることをそのまま、お取次頂いたら、末永先生がこういうふうにいうてお取次して下さいましたというて、話されたことなんですけれども、波多野さん私は、益々住みよいおかげが頂けると思う、もうそれを頂いた時に信心しとればそうだと思うたと、私はもうこれを頂いた時にね、本当にもう手を叩いてから喜びたかった。素晴らしい事です。
こういう時代にあってです、信心さして頂いておれば、昨日の朝の御理解の中にもです、どういう例えば時代が変わって参りましてもです、神と仲ようする信心してさえおりゃ、心配はないと、そう言えばです、いろいろと言うてはおるけれども、おかげを頂いて、信心さして頂いとれば、従軍、終戦、そして二十幾年にならして頂いて段々そのおかげを頂いておるという事実から、これからとても、もっともっとよい住み良い世の中になってくるんだとそれを確信できるというところに信心があるのです それがいわゆる、楽天的なものであってはなりません。どげんかなるくさいというような楽天的なものではないけれども、過去の事を思い現在の事を思う時にです、将来はこの調子で、自分の心の中に信心が育って行く限り、どのように次第の変革があってもです、益々おかげの世界に拡がって行くんだといったという、それは私が何故そんなに、ああ成程そうだと思った事はね、最近末永先生の言った事の一つ一つを言うてみるとです、親先生、我情我欲をすることはありませんとこういう、もう、我情の為に一生懸命、いわば、我情のこと、自分の思いが成就することばっかりを神様に願うことの信心からです、その我情をすきっと捨て切った時にです、こんなに有難いこんなに楽な事はないと言い切っております。
もうそれなら、我が身は神徳の中に生かされてある喜びが生まれて来ないはずがないです。自分の思いを捨てるということ、あああって欲しい、こうあって欲しいと、只信心が喜ばしい信心になって行く。
先日からお知らせに和合ということを頂いた。もうこのことに最近は取り組んでおると。これは人との和合と、人間関係の事ではない、すべての物、全ての事柄と、いわゆる、調和を保てる心を頂く事に只、焦点を置いておる。
成程そういう信心をさして頂いておれば、これが言えるはずだと思うたから嬉しかったんです。
日頃この人の信心が、しだごだの信心しよってから、そんな事いうたら、これは楽天的な言いかただ、そんな危険な考え方が一番いけないと私が思うたでしょう。
けどなら、最近の先生の信心を私が実際に知っておりますから、本当に嬉しかった そんな素晴らしい一言です。いよいよ住みにくい世の中になって来る、これが普通の者の考えの相場です。ところがです、信心頂いておる者の、本当の例えば、おかげを受けなければならないという事は、私は反対に思うです。
私はいよいよ住みようなってくる。これは人じゃなかです、私自身がこのように助かって行っているのですから、その助かりがより良い、住み良い世界にならないはずがないんだと、確信してのところだから、私は嬉しいなあと思うた。
私はこういう信心ですよ、私が皆さんにわかって頂きたいのは、もう本当に金光大神も喜ぶ、神も喜ぶ、いうならば、親先生も喜んで下さる、神様も喜んで下さる、自分自身も楽なんです。自分自身も有難い。
もう本当に素晴らしい、私は一日その事で何とはなしに有難かった。もう一つ、佐田のおばあちゃんが発表しとられました。先日から一寸小遣いに不自由する。先日アメリカに行っておられる息子さんから小遣いが送ってくる。けどこの頃いろいろ物価が高くなってから、ま、それでは少し足りない。
しかもいつ送って来る日に送って来ない。そこで若奥さんが銀行に行くといわれるので、そんなら私の金をちっとばかり下ろして来てもらおうかと、そういうて頼んだ そしてその若奥さんが、なら行って来ましょうかと言うて庭に出た時に、アメリカからの送金が来た。
おかげ頂いて本当に間違いのないことを、恐れ入りました、とこうおかげ話をしとられました。先生これにはまだ続きがございますと言うて、一応切っておられた話を又続けられます話の中にです、今日も今日とてこうでございました。
今日もみどり会におかげを頂かしてもらおうと思うておりましたら、高橋さんが見えられた。何か御用があって、それでなら、ばばしゃま、私が車に乗せて行こうと言うて乗せてもろうたと。若奥様と顔見合せて、ほうらと言うて、もうこの、ほうらのと言うのが素晴らしいでしょうが。
家族中でです、家族中でね、本当に神様の働きをここに、昨日から頂くように、ここに神様を生み現すということをです、ほうらの、神様ちゃ間違いのないの、有難いことの中にその、ほうらの、というのが入っとるわけです。
これは佐田さんところの一家の場合は、もう一日の中にいつも、どれだけ、ほうらのが出るやらわからんおかげを受けておられる事を、日々のお届けの中から私が知っとります。
御主人の【 】の方のこと、家庭のこと、子供達のこと、私はそのことを嬉しいと思うて神様に御礼申さして頂いたらね、見事な洋酒のね、セットの洋酒を頂いたんです。あのグラスも入っているしね、何かこうする栓抜きのような廻す、とにかくあのお酒を頂く一切がっいの、あんなのは見た事もないですけれども、そういうセットになっいるところを頂く。ははあ、佐田さんのところはね、おかげを頂くセットが揃うとるですみんな。家にはもう本当に主人が信心してくれるとよかばってとか、家内がまちっと熱心になっくれるとよかばってんがということもないわけです。
親子三人の熱心な、これこそ、朝参りを欠かされた事がない。取り上げじゃけん、御無礼するということが全然なかもん。
勿論百姓じゃなかけん、取り上げがあるはずはないばってん、やっぱり、商売人でも今が取り上げという時があるですよ。やっぱり。
けど、そういう事なんかはです、もう信心の中に入ってしまっているです、仕事なの中。勿論三人の子供がおりますが、三人の子供がまた、それこそ教えられるような信心を、子供ながらもさして頂いておる。
成程セットが揃うとる。揃うとるというか、揃うとるからセットというのでしょうがね。佐田一家のいわゆる、おかげを頂いていく、お徳を受けていく、それが一足飛びに頂けるはずはありません。
それなら濡れ手にアワのつかみ取り、そういう事ではないけれども、この調子で行きゃ、末永さんじゃないけれども、益々住み良い世界になると確信する。
この調子で行きゃ、それこそ神様に喜んで頂けるような、御用も出来るようなおかげが頂けるぞと、もうそれいっぱいでの喜びでのお参りですもん。
これはいっちょ頼まにゃならんけんでちゅうようなものと全然違うとですよ。だから、そういう例えば、いうならばです、只お願いせんならんから、苦しいからだけでお参りしよる信心が、例えよし十年続いたっちゃ、そのこと、その事がおかげになって行っても、私は神も喜び、金光大神も喜んで下さるような、又自分も喜びというようなおかげにはならないと思う。
私がここに皆さんに教えておるというか、まあお取次さして頂いておるという事はです、氏子信心しておかげを受けてくれよという事でしょうが。
その為には力を受けなければなりませんよ、お徳を受けなければなりませんよ。その為にはこういう信心をさして貰わねばいけませんよと、毎日皆さんに聞いて頂いとるわけでしょうが。だから、師匠が教えた事をいうならば、そのまま地で行く生き方をさして頂いてです、そこから、ほうらの、というおかげを頂いとる。
どういうところを通っておっても、これから先のおかげの事を思ったら、心が躍る程の、いよいよ住み良い世界に、私が神様と仲ようしておる信心をしておる限りですこれはおかげが受けられる。いよいよ住み良い世界になってくるんだと、確信出来れるという事がです、本当に素晴らしい事と体得したねえと言うて、師匠も喜ぶ、金光大神も喜ぶ、天地金乃神様も喜んで下さる、氏子も又喜びじゃでしょう。
氏子が喜ぶ、安心のおかげを頂く。それに一寸した事が苦になってこたえん、心配になってこたえん。神様の方は棚に上げてから、心配の方ばっかり、というような信心では、それはね、心配だからこそ信心もします。けどそういう心配の時、そういう難儀を難儀と思うておる時にです、その難儀のおかげで、なら本当の信心を身につけなさいという事なんです。
これもお仕舞いのもう済んでからですか。田中さんが発表しとられましたが、今日は何か風呂敷を沢山頂いとられたか何かでしょう。だから今日はみどり会の方達が見えるけんで、見えた方達に持って行ってあげようと、それが八枚であった。
だからそれを、私はそれを聞かせて頂いてですね、そのおかげも素晴らしいばってん、その田中さんのその風呂敷ば、信心友達に配ろうというその心が嬉しかったんです。その何とはなしに、いわば、その美しい心、そしてお参りさせて頂きましたら丁度、御広前にお引き寄せ頂いた時には、みどり会の方達が丁度八人、勿論後から、いくらも見えましたけども、その時丁度八人見えとりました。
だからそれを一枚宛配ったら、丁度おかげ頂きました。もうそれこそ人に物をやって嬉しゅうてこたえん、有難うしてこたえん。そういう神様の働きを感じるからなんです。
何と今日は私かささやかな喜び、ささやかな真心がです、こんなに神様が受けて下さると思うたら、人に物をやって嬉しかった、有難かった。それは田中さんの喜びである。なら、私の喜びはです、本当に信心さして頂いて、段々美しくなられるところが出来よるところが私は嬉しかった。
師匠も喜びじゃ、金光大神も喜んで下さりゃ、貰うた者も喜びじゃ。なら田中さん自身も人に物を与えて嬉しいでしょうが。なかなか出来る事じゃありません。
信心さして頂いておればです、それがそういう、それが時々であっても、美しい心が出来てくる。しかも与えて有難いという味わいというか、体験を積んで行く事が出来る。ですから今日私が皆さんに聞いて頂きたい、それこそ神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び、それを取次かして頂くところの師匠も又嬉しゅうてこたえんごたるです。喜ばしゅうてこたえん、取次者としての冥利を私がいよいよ感ずる時、どいう沢山、私は昨日申しました皆に、まあ私から好かれたいと思うものは誰もおるめえばってん、もし私から好かれたいと思うなら、本当の信心ばして下さる以外にないです どかしこ山積むごたる、いうならば、お供えしたところで、どげん朝晩参ったところで、私がいう信心は、一つも身につけて行かないなら、私は好きにはなれない、そういう人は。
勿論、私から好かれんでんよかと言えば、それまでだけれども、それがそのまま、金光大神に好かれる道であり、天地金乃神様に好かれる事である。
勿論、自分も喜びおる事が出来る事になるのです。もう一つその嬉しい事があった 昨日、お風呂に入らせて頂いとりました、久富先生と二人入っとったら、家内が外から今日はお食事の準備を部屋の方へしとりますもんねとこういうわけです。
なしや、て私が言うたら、いえ、相撲がありよるけん、あそこで御神酒頂いて、相撲見ながらお食事頂いて下さいと、こういうわけです。
大体、非常に思いやりのない人ですけれども、私はその、相撲はどっちでもよいのです。あまり好かんのです。けど久富先生が大変好きなのです。
だからその久富先生にかけたその思いがね、私は大変嬉しいと思うた。たったそれだけの事なんだけれども。まあ昨日、大変嬉しい有難い一日でございましたけれども それは深刻なお願いがある。それは大変難儀な問題をお取次さして頂くときです、あれは妙なものでね、お取次が病人なら病人のお届けがずっ-と続いたり、人間関係で苦しんでおるとき、金銭関係で苦しんでおる時、大体その日のそういう傾向があるんです。これは私は合楽の御広前の一つの断面というかね、そいう現れということは私が確信を持ってお取次が出来ますね。
どういう問題であっても、そういう、それが続いとります。昨日は本当に今申しますように、丁度今日の御理解にありますようにね、神も喜び、金光大神も喜び、先にありますように習うた事を忘れたり、それを行わなかったり、それを例えば習うた事を戻してしもうては、師匠がどれだけ徳をした事があるか、それを覚えておって、例えば出世をして、あの人のおかげでこれだけの出世をしたと言えば、それが師匠も喜ぶという。昨日はそういう一日でございました。
お互い一つ本気でです、例えば末永先生じゃないですけれども、もう本気で一切のものと和合する生き方に焦点をしぼっとります。
本当に我情我欲なんかは、本当に捨て切ってしもうて、本当な信心に向かう時にもう、我情我欲くらい馬鹿らしいものはなかと、わかるような信心。
そこから佐田さんじゃないけれども、ほうらの、というごとあるおかげの中に生神を生み現して行く程しのおかげが頂けれる。
その為にはいよいよ限りなく美しゅうならして頂くけいこをして頂いて、親切な心を人にも思いを懸けて行くような生き方、田中さんじゃないけれども、美しい心を披瀝して行く、現していくところから、人にも喜ばれ、自分を嬉しい。そこには神様の働きというものが必ずある。
神様が喜こんで下さるような事を思いついてそれを実行すると、丁度八枚もって来た風呂敷が、丁度先着見えておったのが八名であったと。
もうそれこそ、人に与えて、ああ神様が受けて下さったと喜んどる。それを聞いた私が嬉しくないはずがない。素晴らしいことだ。折角信心さして頂くのでございますから、神も喜び、金光大神も喜び、自分も喜こべる。同時にそれを習うた師匠も有難いと喜ぶようなね、信心を身につけて行きたいと思いますね。
どうぞ。